


平安時代には官営の織物工房
西陣織の源流は、遠く古墳時代にまで求められます。5、6世紀頃、大陸からの渡来人である秦氏の一族が山城の国、つまり今の京都・太秦あたりに住みついて、養蚕と絹織物の技術を伝えたのです。
飛鳥時代や奈良時代を経て、やがて平安京への遷都が行われると、朝廷では絹織物技術を受け継ぐ工人(たくみ)たちを織部司(おりべのつかさ)という役所のもとに組織して、綾・錦などの高級織物を生産させました。いわば国営の織物業が営まれていたわけです。織物の工人たちは現在の京都市上京区上長者町あたりに集まって、織部町といわれる町をかたちづくっていたといわれます。





「大宮の絹」「大舎人の綾」と珍重
平安時代も中期以降になると、こうした官営の織物工房は徐々に衰えました。律令政治のタガがゆるみ始め、工人たちが自分たちの仕事として織物業を営むようになったのです。彼らはやはり織部町の近くの大舎人(おおとねり)町に集まり住み、鎌倉時代には「大舎人の綾」とか「大宮の絹」などと呼ばれ珍重された織物を生産していました。また、大陸から伝えられる新しい技術も取り入れ、つねにすぐれた織物づくりに取り組みました。
室町時代には、大舎人座(おおとねりざ)という同業組合のようなものを組織し、朝廷の内蔵寮(うちのくらのつかさ)からの需要に応えながら、一般の公家や武家などの注文にも応じていました。
応仁の乱の西軍本陣が名の由来

紋織技術で日本の代表的織物に





苦境を乗り越え近代化にも成功

しかし、江戸時代も半ばを過ぎると西陣にも苦境が訪れます。度重なる飢饉で世の中が不安定となり、幕府による奢侈(しゃし)禁止令もあって需要が減少。また、二度の大火にもあい、丹後や桐生など新しい絹織物産地が生まれたことも痛手となりました。
明治になって首都が東京に移されたことも、京都の街全体の勢いを失わせました。
しかし、昔から、海外の先進技術の導入に積極的であった西陣では、文明開化のチャンスにいち早く呼応。人材をフランスなどに 派遣し、ジャカード織物などの技 術を取り入れて、近代化に成功したのです。



技術進化と意匠の洗練、幅広い用途開発も
大正や昭和にいたって、高級絹織物の大衆化を進めると同時に、伝統的な手織技術の高度化や図案・デザインの洗練にも努め、わが国の高級織物業の代名詞としての地位を確かなものとしたのです。
現在では、西陣織製品の用途の拡大にも取り組み、伝統的な帯地やきものに限らず、ネクタイやショール、和装小物などの材料用としても格調高いすぐれた製品を生産。壁掛けなどいわゆるインテリア用途の製品が、帯地に次ぐ生産額を占めるほどになっているほか、斬新な感覚の洋風着物などの普及にも取り組んでいます。